英米文学セミナー
学生が授業の主役となり、授業内カリキュラムの演者となる
トークにより他者認識の多様さを知り、自己認識を改善する
インターラクション・オーダーのなかで同輩(協同)学習をする
原典(英文テキスト)の自力多読・自力思索を回復にする
原典講読の動機づけと共に達成感が得られるようにする
文責: 清水 豊子
英米文学セミナーII (シラバス/2005年)
清水 豊子 (千葉大学教育学部教授)
『オイディプス王』(ソフォクレス)/The Collection or A Slight Ache (Harold Pinter)/A Woman of No Importance (Oscar Wilde)/The Crucible (Arthur Miller)
とりわけ若者の間に難解なテキスト(文学や哲学など)離れが進行している時代に、新たな想像力を駆使して異文化を学ぶ言語芸術鑑賞は教養の基盤として重要なものです。文学とは「それぞれの時代に生きた人々の証言」であり、「各時代とそこに生きた人々の真実を伝えるもの」です。また、シェイクスピアはハムレットの口を通して「演劇とは、社会全体に掲げられた鏡(mirror up to nature)である」と言っています。そこで、この授業では、その認識をあらかじめ徹底させた上で、学生たちが古今の欧米の戯曲に触れ、各時代を生きた人々の生き方や考え方を通して異文化を学ぶと同時に、言語芸術の確かな理解・創造的な鑑賞を達成することができるように誘います。
それと同時に、近年は、古典の理解・鑑賞だけでなく、会話力・英語表現力(アプトプット)を修得することを強く望みながら、その基盤になるはずの、英文テキストの講読(インプット)を苦手とし軽視する学生が増えましたが、そういう学生も含めて以前のように自力で読み解く意欲と読解力を身につけるように導くこともめざしています。
この授業はすでに30年近く担当していますが、この10年間に、授業の内容も方法も大きく変わりました。もちろん、授業者が悩みながら毎年試行錯誤をくり返して少しずつ変えてきた結果です。なぜ変えたのか、どう変えたのか、次に簡単に経緯を述べます。
【従来型の原典講読の演習が機能低下】
この授業はかつて、シェイクスピア(William Shakespeare)の原書講読の演習でした。この原書講読は、原典ならではの読む充実感を味わえるだけでなく、ややむずかしいモダンイングリッシュ(シェイクスピアの英語は古語・廃語も含むが現代英語と同質であり、慣用的英語表現として今も使われている成句も多い)をいかに読むかの訓練にもなります。しかも、何よりも、将来英語教師になる学生の基礎的教養になると考えて始めました。実際、当初の十年余り(1970年代後半〜1980年代)は学生の期待も高く、悲劇や喜劇のジャンルから毎年自由に作品を選んで演習形式で丹念に講読しました。その結果、学生たちはそれなりにイギリスの言語文化の古典の粋を楽しめたようです。実際、卒業生から「シェイクスピアのオリジナルを読んだ体験が英語教師としての自信の基盤になった」という言葉を何度か得ました。
しかしやがて、想像力・読解力・思考力が低下してきたためか学生の予習・復習が浅薄になり、この授業の目標を達成することが困難になってきました。授業の達成目標は、「難易度の高い古典の英文を読み解くこと(実際には注釈本や語彙辞典が出ていて、現代の戯曲より読みやすい一面もある)、そして生きる時代も住む世界も違う人たちの生き方や考え方を理解し鑑賞すること」。従来、達成度はテストによる英文理解度とエッセイによる内容理解度により判定し、達成率が6割以上であれば授業が機能していると考えましたが、学生にとっては古典の複雑な英語構文を読み解くのも、シェイクスピアの異文化世界から何かを感じとるのも困難になる一方でした。その結果、作品選択の自由がきかなくなり、たとえば、テキストが比較的短くドラマの展開が速い『マクベス』(Macbeth)を使っても、形骸化する学生の読み方に歯止めをかけることはできませんでした。こうして、目標の達成率も下がる一方となり、ついに、1996年にこの原典講読に終止符を打ちました。実はその2,3年前に止めることにしたのですが、20年間続いていた演習なので、学生に「なぜ止めるのか。止めないでほしい」と言われ、続行したいきさつがあります。しかしやはり、長くは続きませんでした。
こうして、伝統的な一斉講読の演習方式(数人の学生に下調べを促し、毎回彼らの発表を基に数頁ずつ丹念に読み解く方法)では驚くほど学生の学びが身につかなくなりました。結局、大学も大衆化時代を迎えた今日においては、従来の大学教育が前提にしていた「大学生は自ら読んで考える過程を形成できる存在」という仮説がすでに崩れ去っていることを認めざるを得ず、演習の授業のあり方そのものを問い直さなければならないのではないか、と考えるに至りました。では一体どういうセミナー方式をとったら、かつてのように質のある英文原書(言語芸術)の自力講読やそれに伴う自力思索を可能にし、大学生の「読み、考える」経験(インプット)を確実に成立させることができるのか? こうして試行錯誤が始まりました。
【学生本位の新型セミナー方式の開発】
そこでまず、学生が興味を示し理解しなければ授業の存在理由がないので、作品の選定基準は、学生が興味を示しそうなもの、学生が理解できそうなものに限定しました。といっても、質の低い日常的な英文を選ぶわけではなく、あくまで異文化の薫りある英米戯曲の範囲内で選定します。こうすると選択の範囲は狭まり、以前のように、未知の多様な異文化や人間存在についての認識を深めるという目標が限定的になりますが、学生の「理解の成立」を優先させたいと考えました。テキストの選択の範囲が狭まったことで、学生が欧米の演劇というジャンルの全体像をおぼろげに知る機会さえなくなったので、英米の近代・現代劇は原典で講読しますが、古典(ギリシャ悲劇・シェイクスピア劇)は日本語で読むなど、年度によって読む作品は異なりますが、幅を拡げる工夫もするようになりました。
他方、筆者は以前から、原書の精読(intensive reading)と多読(extensive reading)の両方の読み方を指導する必要を感じて、学期中に精読を行い、夏休みと冬休みを利用して多読にトライさせるという形をとってきました。現在も、原典講読のこうした基本形態を変える必要はないと考えています。というのも、学生が原典を自分で読もうという積極的意欲を持たない現状では、教室で毎回数頁ずつ丹念に読み解く精読方式だけでは英文読解力はほとんど身につかないため、ある程度のまとまった分量を自力で多読する機会を提供する方法は一層重要になっているからです。
学生を学びへ動機づけて授業にうまく巻き込むために、授業の方法論に関しては数年にわたって試行錯誤をしました。少人数クラスなので、たとえば、予習で学生全員に疑問点を1,2は必ず見つけてくるように促して、授業で講読を進めつつ質疑応答を活発にする方法とか、教師が進行係となってクラス全体をトークへ誘って、学生同士の意見交換を促す方法とか、いろいろな工夫が可能でした。その結果、多少関心を深める学生はいましたが、学生全体から原書講読への意欲や積極的な学習態度を引き出すには至りませんでした。やがて、教師と学生の相互作用をいくら大事にしても、授業運営のすべてを教師が取り仕切る「教師本位の授業」である限り、いつの間にか教室に漂う学生の擬似学習スタイル(授業には出席しても、予習・復習は無関心かおざなりで、授業中も自分の頭を動かそうとしない、あるいは動かせない状態)を打破することはむずかしいと認識するに至りました。そこで、Jerome Bruner(参考文献参照)が述べるような学習の成立要件を改めて模索する必要性を痛感し、動機付けが行われ授業が機能するような授業の条件設定をどう行うか、文学的テキストを理解する素地の全くない大学生に文学の基本的観念をいかに教えるかという大問題と直面することになりました。
そこで、学生の「読み、考える」経験(インプット)を確実に成立させるためには、「自己表現やコミュニケーションを通して学ぶ」新たな経験(インターラクション&アウトプット)も同時に成立させれば、動機づけや達成感が得られるようになり、文学教育による自己意識の拡大を初めとする「心(精神)の成熟」が多少とも実現できるのではないかという仮設を立て、授業ツールとして小グループトーク(4人が基本)を毎回使うようになりました。しかもそのトークを順調に機能させるために、学生がうまく乗れるような授業を頭にイメージしながらワークシートを作成したのです。別の授業「言語コミュニケーション教育」で述べたように、「トーク」とは、「小グループの親密な関係のなかで、雑多な知識を基に、探求的な態度で考えを進めながら、何かを洞察しようとする即興の会話」のことで、テキストに基づく論理的議論だけでなく、直感的理解や創造的解釈の表出も大切にして、諸事を探索的・洞察的な態度で考えることに価値を置いています。トーク中心の授業を可能にするのがワークシートで、ワークシートの出来次第で授業は大きく影響を受けます。つまり、「トーク」と「ワークシート」は相補的なもので、学生はワークシートに示唆された授業の流れに沿ってトークを続けて、他者の多様な見解をメモしたり自分の気づきなどを記述しながら、徐々に思考回路を形成していきます。「ワークシート」は授業デザインの具体化そのものであり、トークにおける学生の思索を促し学びを確かなものにするためのツールです。
こうして、この授業改革の方向は、(1) 教師中心から学生中心(学生参加型)へ、(2) 従来の授業内の一斉講読と理解(教師主導による教育)から、一人ひとりの自力講読への動機づけと学生間の理解の共有(トークによる同輩学習)の重視へ、(3) 教師と学生の相互作用より、学生同士の相互作用とそこに生まれる相互作用秩序(インターラクション・オーダー)の重視へ、と進みました。なお、相互作用秩序とは、社会学者Erving. Goffmanの言葉で、Martin J. Maloneに受け継がれた概念です(参考文献参照)。本論では、トークにおける相互性のなかで生まれる参加者の行動的秩序のことで、この秩序のなかで参加者は自己を創ったり維持しながら相互に学び合う関係を成立・発展させていくと仮定されています。
新型セミナーのトーク風景(2004年度)
【トークによる同輩学習/Peer Learning through Talk】
別掲の「言語コミュニケーション教育」と同様、この授業の核に据えた教授モデルは「インプット ⇔ インターラクション ⇔ アウトプット」です。つまり、この授業では、インプットと同時にインターラクションとアウトプットも重視し、しかも3つの段階を一直線に進むのではなく螺旋状に進むということです。このモデルに従えば、インプット(テキストの自力多読)からインターラクション(トークによる同輩学習)へと進みますが、インターラクションが進むとインプット(テキストの部分再読)に戻って理解の確認・深化を共有することがあり、そういう意味で一方通行ではなく相互通行です。インプットとインターラクションを行き来する過程で、学生一人ひとりが同輩他者の多様な認識のあり様に驚きや共感をもって反応し、テキストに関する新たな気づきや発見を重ねて、徐々に自分の理解や認識を変容・拡大していきます。このように、同輩学習の効果は、教え込まれたものではなく、自ら学びとるものです。一方、アウトプットは、授業における口頭(トーク)・文章(ワークシート)上での自己表現や最終的なエッセイライティング(自分の作品論の作成)を含みますが、このアウトプットもインターラクションと相互通行の間柄です。最近はごく常識的な文章表現を苦手としたり文章の推敲の仕方を知らない学生もいるので、各学生が書いたエッセイの素案(アウトプット)が出てきたときに、インターラクションに戻ると、そこは最適の同輩学習の場となります。互いのエッセイを読んで意見交換を行いながら、自分の読み違いや思い違いを修正したり、より良い論証の仕方を学んだりする場になるだけでなく、複数のエッセイに触れるために否応なく良し悪しがわかって、自分の文章を推敲しようという動機づけの場にもなります。
年間を通して、この授業で学生が講読した戯曲は次の通りです。多読と精読を併用しているため、通常の作品講読の演習より読む量は多いかもしれません。(行末のカッコ内は授業回数。ただし、第1回のイントロダクションは除く)
| 第 I 段階: | 『オイディプス王』 (ソフォクレス)〜長編(1回) ※日本語版の通読で、通期の全授業のウォーミングアップを行う。 |
| 第 II 段階: | The Collection or A Slight Ache (Harold Pinter) 〜中篇(各5回) |
| 第 III 段階: | A Woman of No Importance (Oscar Wilde) 〜 長編(2回+夏休み+4回) |
| 第 IV 段階: | The Crucible (Arthur Miller) 〜 長編(6回+冬休み+3回) |
学生本位の新型セミナー方式については、第III段階のA Woman of No Importanceを中心に述べます。導入部として大切な役割がある第I段階はやや詳しく、精読・多読の折衷的方式を使った第II・IV段階は簡潔に触れる予定です。なお、以下で明らかなように、今は授業の段取りも、指示の出し方も、筆者自身が驚くほど懇切丁寧に行っています。それは学び支援型の授業に徹することによって、授業が機能し、世界的評価のある言語芸術を当今の学生がしっかり理解し味わえるようにするためです。
導入部の第I段階は、学生参加型の通年の授業が順調に機能するかどうかを決定づける重要な段階と考え、授業がどう進むのか模様眺めの学生から、作品講読への興味とトークへの親和感を多少とも引き出し、彼らの気持ちを授業へ巻き込んで授業の軌道に乗せるための基盤固めを行います。
第1回:イントロダクション(授業案内と頭の体操)
第1回の授業では、まず、この授業の内容と目的、「文学はなぜ人生に必要か」などについて、解説の文書を配布してわかりやすく講じ、学生をこの授業へ案内します。とりわけ、「演劇は人類の文化遺産であり、受講生各自がいろいろな時代の戯曲を読むことによって、それぞれの時代に生きた人々の証言に耳を傾け、その社会と人間の真実を理解するとともに、受講生同士でその理解を深めつつ共有する」という達成目標に言及し、近代・現代の英米の戯曲を原語で読むこと、視野を拡げるため古典作品を日本語で読むこともあり得る旨、伝えます。
第1回の後半には軽い頭の体操になるような活動を行います。2004年度の資料・記録不備のため、2005年度について書き添えます。異文化鑑賞につながるトークへのウォーミングアップを試みるため、短い英文の台詞(夏休みの多読課題の戯曲より抜粋)を配布し、その場ですぐに学生たちを自力講読とトークへ誘います。
⇒ 第1回 トークのための英文テキスト & 第1回 ワークシート回答例 /2005年
その後、解説の文書を使って課題を指示します。「来週までに、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』King Oedipusを手に入れて、読んでくること。短い戯曲で、ミステリーのように謎解きしながら興味深く読めるはずですよ」と。特に、(1) 徹底的に主人公のオイディプスの立場に立って読んでみること、(2) 各自の通読体験を基に、次週の授業ではトークを通してその時代と人々の生き方の理解を深める予定であること、(3) 翻訳本は文庫本を買うか図書館で借りること、などについて説明します。全員が1週間以内に本を調達しこのギリシャ悲劇を読んでくる気にならなければ次の授業は成立しないため、懇切丁寧に真剣勝負で自力講読へ誘います。
第2回:古典戯曲の自力講読をもとに仲間と語り合う楽しさの共有体験
ほとんどの学生が課題図書『オイディプス王』の単行本か図書館で借りた本を持参して授業に臨みます。そこで授業は、学生がこのギリシャ悲劇を読んできたことを前提として、段階を踏みながら進めていきます。この戯曲をどの程度理解できたか(自力講読の結果)は学生によってかなり差があるので、最初の対自課題では大雑把な設問を用意し、誰でも読んだ感想や理解した内容を多少にかかわらず記述できるように導きます。次の対人課題では、仲間と自由にトークしながら、各自ドラマの展開をしっかり理解していけるようにします。なお、トークにストップをかけクラス全体で報告をし合うときなどに、たとえば、ソフォクレスの『オイディプス王』がなぜギリシャ悲劇の最高傑作と評されるのかについてアリストテレスの『詩学』に拠る解説を挿入することがありますが、解説は簡潔にして、できるだけタイミングのいいところに自然に入れます。
文学書の古典は日本語でも読んだことのない学生が大半を占める時代なので、異文化の言語芸術をまずは翻訳で味わうという初歩的な経験も、原典購読のウォーミングアップになり、以後の授業をうまく機能させるという点で多少の効果はあるようです。(万一この戯曲をまともに読んでこない学生がいても、トークでほとんど発言できないため、よく読んできた他者に比べて発言力の貧弱さを思い知らされ、やはり読んでこなければと痛感するためか、その後は読んできてトークに積極的に参加するようになります。)
実は、教育実習が3年次の前期に組まれているため、4月末から7月上旬までの間、数人の学生が交互に授業を1か月ずつ休むことになります。この期間は彼らにとっては教育実習のほうがはるかに大きい課題のようで、専門教育には身が入りません。そこで、この間は1か月で読み終えられるような作品を2つ選んで、受講生はどちらかを読めばいいことにしました。取り上げた作品は、2005年のノーベル文学賞を受けることになった現代イギリスの劇作家、ハロルド・ピンター(Harold Pinter)の中編戯曲The Collection と A Slight Ache です。
ピンターは、科学技術最優先の現代において、隷属的な立場に貶められている人間存在の本質的な問題を、独特の手法で、存在の極限に生きる人間のきわめて瑣末な世界を通して描く劇作家です。彼の演劇言語はきわめて卑近で平易に見えますが、饒舌と緘黙が入り乱れ、現代の言語解体現象を反映して読みとりにくい上に、言葉の背後の意味、行間の含意、作品に込められたメッセージを丹念に読み取らなければ、戯曲に内在する不思議な魅力を理解できません。したがって、彼の言語芸術は多読用テキストには適さず、想像力を働かせて推論・思索を重ねながらじっくり読み進むのに適しています。
The Collectionについては、ピンターに関心をもち、英語教育におけるreading(原典講読)の研究をめざす大学院生に実験授業の場を提供しました。もとより第III段階で述べる新型セミナーの3段階の枠組みを使って自力講読と同輩学習をいかに成立させるかを充分に説明・伝授した上で、テキストを3分割した形での授業の組み立てを勧めました。ピンターの演劇言語の特徴ゆえに多読には向かないためです。授業内容は新型セミナーの枠内で詳細に計画され、協同の吟味も加えられました。なお、学生たちは同世代の院生の取り組みに触れて、日頃敬遠しがちなreadingに親しみを感じたようです。A Slight Acheについては、戯曲の性格上(一日のうちに一人の男の自我意識が崩壊する過程を描いているため)、冒頭から丹念に読み進んだほうがいいと判断し、精読方式で読み進め要所で学生の推論を引き出すように努めました。この場合、通読後に、ワークシートを導入して学生に一連の経緯の理解をさらに促し、一人ひとりの基本的理解が成立したことを確認しながら、クラス全体の議論で可能な解釈のあり方を共有する方法をとりました。近年では、通読後すぐにエッセイライティングを指示しても、あいまいな理解のまま、内容理解・論証の仕方においても驚くほど粗雑なエッセイを出す学生もいるため、この程度の総括的なワークシートでも、適宜導入することによって、学生たちに原典のより的確な理解を徹底することができ、ひいては言語芸術の魅力や深さの鑑賞へ導くことができるという感触を得ました。
以上のように、前期は、受講生の時間と精力が教育実習に奪われるため、彼らは7月上旬に至っても、原典は中篇戯曲1篇を読み終えただけでした。もともと授業で原典を少しずつ読み進む方法だけでは学生の読解力は身につかないという危機感から、自力講読・自力思索を再び可能にするにはどうしたらいいかと考え続けていたので、次は、比較的読みやすいテキストを選んで、自力多読(extensive reading)を促すことにしました。そこで選ばれたのが、19世紀末のイギリスの風習喜劇A Woman of No Importance (Oscar Wilde)です。これはワイルドの風習喜劇のなかでも、英語の字面を追うだけでも大方は理解でき、ストーリー性や盛り上がりもあって、学生が一気に読み得るドラマであり、同時に、授業モデル「インプット⇔インターラクション⇔アウトプット」にも最適だと判断したためです。
昨今では、授業者がテキストを指定し、学生に「休み中に読んでおくように」という指示を出すだけでは、多読課題は空回りします。原典講読の新型セミナー方式の出発点は、英語力はともかく、どうしたら学生の読む意欲を引き出せるかということなので、数年以上前から、原典講読への興味を引き出すため、読む前後にコミュニケーション活動を入れるようになりました。「講読前のコミュニケーション活動」は動機づけそのものを意図しています。一方、「講読後のコミュニケーション活動」は原典のより的確な理解を目指しているものの、原典を読んでいなければ事実上参加できないため、間接的には動機づけにも寄与していると推定されます。A Woman of No Importanceの自力多読を促そうとする場合、現在のところはおよそ以下のようなプロセスを踏みます。(ただし、どういうテキストを選ぶかでこのプロセス通りにはいかないこともあります。また、クラスの特性によってはこういう方法論は適さない場合もあります。方法論はテキストの選択や学生の特質によってどんどん変えて、常に臨機応変に創出すべきものなのかもしれません。)
1.講読前のコミュニケーション活動(Pre-reading Communicative Activities) (1) 意図的に選ばれたテキストの一節を各自読んだ後、トークへ(1回) 2.原典(長編戯曲)の自力多読=夏休みの課題 (1) あらかじめ文書で、多読方法の具体的ガイダンスを行う 3.講読後のコミュニケーション活動(Post-reading Communicative Activities) (1) テキスト理解を徐々に深めるためのトークを行う(2回) |
「講読前のコミュニケーション活動」の (1) のトークへ誘うには、グループトークが楽しく活発になるような教材(原典の抜粋)を探さなければなりません。そこで原典後半から主要人物の会話を抜粋・編集し、10分ほどで読める「第13回 トークのための抜粋資料」を作りました。この抜粋は英語も平易な上に、きちんと読み取ればドラマの全体像を推論することができるので、トークには最適ではないかと判断しました。実際、トークでは活発に色々な意見が行き交い、学生たちが推論を楽しむ様子も見受けられました。ワークシートの回答例をみると、自力講読後の推論では読み違えもありますが、トーク後には読み違えはかなりの程度修正されています。おそらく小グループトークに自然に生じたインターラクション・オーダーのなかで、学生たちは互いに学び合ってドラマの大きな流れを理解したのではないかと推定されます。(なお、動画は2005年度のこの段階の授業を録画したものです。)
⇒ 第13回 トークのための抜粋資料 & 第13回 ワークシート
原典の自力多読(全集本で50頁分)という夏休みの課題に関しては、学生の自力多読を直接支援するワークシートは創らず、文書による (1) 多読方法の例示、(2) 3つの視点の示唆、という後方支援に留めました。文書による説明だけに留めたのは、字面を読めば内容理解もかなり可能なため、あるいは、長い原典(英文テキスト)を初めて読むにせよ、やはり何にも頼らず、本物の自力多読を経験してほしいと考えた(賭けた)ためです。

英文原典の自力多読を終えた学生たちの日本語によるトーク風景(2004年度)
「講読後のコミュニケーション活動」は、後期の最初の4回の授業を使って行われます。前半2回は (1) テキストの理解を深めるため、後半2回は (2) エッセイ素案を読み合い意見交換するためです。エッセイライティングは、前半の終わりに指示し、後半2回の授業を経て推敲するように導きます。なお、夏休みの課題遂行率は7割弱(16人中11人が読了、3人が未読了、2人が欠席)でした。読み方は、「ほとんど休まず読み切った」から、「一気に読みきる自信がなかったので、毎日少しずつ読んだ」まで様々でした。自由記述の欄に、偶然にも、3人が「長い英文を速読で読みきったことに達成感があった」などと達成感に言及し、先の展開や人間関係、脇役の会話などが「楽しかった」と記した者も7人いました。この結果は第2回の授業で学生たちにも報告しました。読了していない学生も、この授業のスタイルに慣れているので、同輩他者に刺激をうけて後追いながら読む意欲や必要性を感じ、それなりに読んできてトークに参加していきます。読了・未読了の2人の回答例は次の通りです。
⇒ 後期第1回 ワークシート回答例 (1) & ワークシート回答例
こうして、このクラスの場合、学生の反応が概ね良好であり、夏休みの課題はよく遂行されたと判断しました。また、このクラスはパフォーマンス(英語で即興劇を創って演ずること)を得意としていたので、テキスト理解を深めるために、トークに加えて、テキストを基にドラマを自由に創るという変わった手法をとりました。授業の一部の時間を使って、まず各グループで即興劇のテーマ・役割・場面を設定し(第2回後半)、次に即興劇の上演とグループ毎の相互評価を行い(第3回冒頭)、最後に授業者が相互評価の結果を発表しました(第4回冒頭)。寄り道のようにみえるかもしれませんが、「後期第4回 解説」にある学生たちの相互評価コメントに示されているように、即興的創作劇の上演体験はテキスト理解を共有するのに役立っています。
⇒ 後期第2回 ワークシート / ⇒ 後期第4回 解説

英語による即興劇のプレゼンテーション
今までの経緯で明らかなように、新型セミナーは、授業内容の準備より授業設計に手間どり、授業者にとっては従来の精読型演習より効率は悪いのですが、インターラクションのなかで学生が学んだことは確実に生かされていきます。最終的に提出されるエッセイは、他者の複数の文章表現に接する(読んで議論する)過程で自分のものと比較するためか、従来の演習方式より、文章表現・論証の仕方などの点でかなり洗練されたものになり、全体的に内容の理解度やエッセイライティングの水準が上がりました。少なくとも文章表現が粗雑なまま提出するような学生はなく、学生間の相互作用の影響力の確かさを感じました。このクラスの場合は、学生の英語力に差はあったものの、異文化理解に必須の想像力・思索力を育んでいる学生が全体の3割ほどはいた(読書や音楽鑑賞の楽しみを知っている学生の存在はこの種の授業に欠かせない)ので、彼らのすみやかな読解や反応をクラス全体の活性化に生かせばなんとか進めるのではないかと予測を立てたところ、その通りに授業が順調に進み、このような学び支援の方法論が有効に作用したと考えられます。
その後のアメリカの現代演劇The Crucible (Arthur Miller)については、従来の演習に近い形でテキストを効率よく読み進みました。4幕構成のため、1幕は7回の精読、2,3幕は冬休み中の多読、4幕は休み明けに3回の精読という具合に。精読といっても、読む分量が多め(約10頁)のため、毎回かなり駆け足で読みました。各幕を読み終える度に、内容についての理解度チェック(A4用紙1枚)を配布し、全員に記入を求めました。講読のテンポがかなり速いため、読み遅れてあきらめてしまう学生が出ないようにするためです。こうして、全員が理解度チェックもこなし、最後まで読み通しました。クラス全員が円陣を組んで座り、一斉講読しながら必要に応じて意見交換を促しましたが、小グループトークは一切行いませんでした。通年の授業の最後にこのように効率的な読み方ができたのも、A Woman of No Importanceの自力多読で、原典購読への動機づけに成功した結果だと思われます。学生の英語力は様々でも、読む意欲さえ生まれれば、従来型の効率的な演習も有効になるようです。
The Crucible は、17世紀末のアメリカ新開地(セイレム)で起こった魔女狩り騒動をテーマに、社会派の劇作家Arthur Millerが描いた力作で、宗教的狂信の犠牲となる主人公たちの心のひだや深層を読みとれれば、とても感動的な作品です。かつての学生なら(教養課程の学生でも)、最初は乗り気になれなくとも、徐々に興味をそそられ、打って変わって先の展開を読みとろうと意欲的に読み出したものです。彼らは一斉講読の授業でも、ごく自然に、登場人物たちの心の動き、魔女狩り騒動の愚かさ・理不尽さなどを読みとりました。ところが、2000年度にもこの作品を使いましたが、エッセイを含む最終試験において、誰一人として主人公の深い心の動きを読みとれず、自分の思い込みで浅薄な読み方に終始していることが判明しました。必要な学習が成立したとはいいがたい結果でした。真面目に机に向かっているクラスだけに愕然としました。そのため、学生の側に学習が成立しないならば、このように深い人間理解を必要とする作品を講読に使っても意味がないのではないかと考えもしました。ところが今回、クラスの質を見極めて懲りずにこの作品を導入したところ、駆け足の一斉講読方式ながら、クラス全体としてかなり充実した作品理解・人物理解が成立したのです。
今回の最終エッセイから判断すると、全員に必要な理解が成立しただけでなく、以下に抜粋・例示しているように、学生の多くが、この作品に内在する「悲劇の崇高さ」を感じとり理解していました。昨今では、文学の基本的観念の一つである「悲劇」のコンセプトさえ学生に理解を促すのは困難になっており、この結果は授業者にとってうれしい驚きでした。そればかりか、終盤の主人公夫婦の抑えた会話のなかに互いに譲れない熱い思いを読みとって、「読解の奥深さ」を知ったという者、優れた文学作品を嗜むなかで「学びの質」をしっかり感じとった者もいます。しっかりとした作品理解に続き、その魅力を鑑賞する域にまで達した学生もいて、近年にない収穫でした。ちなみに、The Crucibleを扱った2つの授業(2000年と今回)の最終成績の平均点を比較してみると、68点 vs 85点で、今回のほうがはるかに理解のレベルが高くなっています。このように、この授業では、原典の自力多読により自力思索や動機づけが促進されて、クラス全体の理解のレベルが上がり、達成感を得た者も複数いました。所期の目的をある程度達することができたと考えています。
最後の長編戯曲The Crucibleに関しては、講読の過程でも、それに続くエッセイライティングの過程でも、トーク(同輩学習)は行わず、クラスでの一斉講読と自宅での自力多読という効率的な方法で通したわけですが、やる気のなさを見せる学生もなく、授業の流れに乗り遅れる学生もなく、読み進んでいました。(後に提出するエッセイからも、全員がかなりの興味をもって読んでいたことがわかります)。原典講読への動機づけがひとたび成立すると、読む意欲が生まれて、頭が自然に動くようになるのでしょうか。ともあれ、従来型の演習方法で、講読の授業が久々にうまく機能したのです。また、近年では珍しいことですが、このクラスの場合、ほぼ全員の授業内の集中と緊張が途切れることはありませんでした。このように、「自己表現やコミュニケーションを通して学ぶ」新たな経験(インターラクション&アウトプット)が成立すれば、動機づけや達成感が得られるため、学生の「読み、考える」経験(インプット)もより確実に成立させることができる、という当初の仮説がかなりの程度裏づけられたように思われます。今の時代、大学生においても、英語力もさることながら、「読む楽しみを知って読む意欲をもつこと」が最も基本的に大事なのだと痛感しました。
〈Input ⇔ Interaction ⇔ Output〉という教授モデルを使ったこの授業の背景には、「インターラクション&アウトプット仮説」があります。これは今までの授業実践から筆者が推論したものです。すなわち、授業がうまく機能すれば、学生一人ひとりに次のような一連の体験学習が成立するというものです。(1) 口頭・文章による言語表現力を高める(自己表現・コミュニケーション体験)、(2) 他者の多様な見解の有り様を知る(多角的なものの見方を学ぶ体験)、(3) 自分の見解をふり返りつつ、多角的な視点で考え始める(自分の見方の見直しと思考回路の形成体験)、(4) 新旧の知識を検証しつつ同化・調整する(より確かな学習体験)、(5) 視野の広がり、自我の拡大を実感する(精神的成長体験)、など。
近年は、なじみのない異文化世界や複雑な人間模様を描く言語芸術作品を読めない(読もうとしない)学生がどんどん増えています。授業の課題を自分で難解なこと・必要のないことと決めつけ、最初から学ぶことを心理的に拒絶していると思われる学生も存在します。そういう傾向が顕著にみられるなかで、学習者に「インターラクション&アウトプット仮説」に沿った諸体験が成立した結果、本授業の4段階すべてが順調に機能し、クラス全体の原典講読の水準がかつてと比べても勝るとも劣らない成果が得られたことは、授業者にとっても達成感のある経験でした。ただし、現実は厳しく、学生本位の新型セミナーもこのように順調に進む授業ばかりとは限らず、英語力・意欲の不足した学生が学びの流れに乗りそこなうことはしばしばあり、常に柔軟な舵取りが求められます。さらに、授業では意欲的に読んだ学生たちが、今後本当に自立した原典の読み手になるかどうかはなんとも言えず、それは別問題であろうと考えています。
Barnes, D. 1988 (1975) From Communication to Curriculum. Penguin
Bruner, J. 1977 (1960) The Process of Education. Harvard U.P.
Malone, M. 1997 Worlds of Talk-The Presentation of Self in Everyday Conversation. Polity Press
清水豊子 2004 「自己表現とインターラクションを通した大学生の学び」、溝上慎一編『学生の学びを支援する大学教育』東信堂
清水豊子 2005 「トークによる異文化言語芸術の理解と鑑賞−学生の思考回路を築き、気づきをはぐくむアウトプット型の教育方法論を探し求めて」、 『千葉大学教育学部研究紀要』第53巻








